「大人のルール」が「子どもの遊びを奪っている」というルール否定を語るストーリは、大人か子どもかの対立関係を強調することが特徴です。たとえば、ある都内住宅街のプレーパークの例でみると、遊び支援のNPO理事が「大人の文句ばかりで遊ぶ場がない」というコトバで、住民がクレームする事に対して非難していました。さらに加えて、被害側に「なぜ引っ越ししないのか」と非難したり、「子どもの遊ぶ自由のために早く引っ越すべきだ」という「子どものため」という大義が一面的に強要されたりしていました。
こうした一面化された”正義”のストーリにより、語る当人達は意識していないとしても、被害を受ける住民に対して子どもへの”罪悪感”を与えようとします。その”罪悪感”を被害住民に認めさせる必要があるからこそ、「あなた達は子どもの遊びを奪ってる」と非難するというわけです。
このストーリからすると公園の条例も「大人が勝手に決めたルール」として否定することになります。それは「自由に遊ぶ」ことを妨げるものとされ、そのために公園内の看板にある「サッカーや野球は迷惑にならないようにしましょう」のような注意書きは、園内の子どもに無視されてしまうことになってしまいます。自由な遊びを邪魔する”大人が悪い”という単純化した考え方が浸透し、そこで遊ぶ子ども達も植え付けられてしまうのです。
こうしたひとりよがりな”正義”のストーリこそ、モラルハラスメントを生み出す要因になってきます。それが向かう方向は子どものためではなく、むしろ大正時代に流行った大人否定の「児童中心主義」のような偏った教育論にはまってしまいます。