遊び論(6):「自由な遊び」の”自由”とは?

遊びの支援を考えるうえで、自然と社会の”制約”を深く理解しておくことは子どもの立場で遊びを実現するうえで非常に重要なことです。この”制約”の理解が曖昧であったり、自分の主観的な感情に固執していたりすると一面的な”自由”になってしまうからです。

「自由な遊び」の主張が意味するものは多様な意見があるとしても、根幹にあるのは「他者からの強制ではない」ということです。ただし、注意する必要があるのは、”自由”というコトバの指す意味です。なんでも自由であればよいような「自由万能説」ではないのは当然です。人を傷つけたり法律を無視した行為まで許す内容ではありません。ここまでは普通の市民感覚を持つ人なら、誰しも同意できる常識的な考えだといえます。

そこで、もう少し”自由”の内容、とくに自由を「制約」するものが何かという本質的な問いについて検討してみましょう。

第1に考える必要があるのは自然という環境そのものが持つ自由の”制約”です。木が多く植えられた森のような公園であれば、野球やサッカーのような球技はできないのであり、自然環境の制約を受けて遊びの内容も変わってきます。それを変える要因は人ではなく自然環境であって、人が手を加えなくともそこに存在している物理的な”制約”です。

いくら子どもがそこでサッカーをしたいと思っても、サッカーをする”自由”は幻想となります。もちろん、その木を取り払えるなら、可能ですが実際は多くの予算や公園の制度上の問題が出てきます。だからこそ、その公園の課題として自然環境を活かす工夫や遊びの工夫が必要になってくるのです。それゆえ、自然をどう活かすかが遊び支援の課題となります。

第2に人間関係や文化に関わる社会的な”制約”の問題があります。たとえば、公園が都会のマンションに囲われた場所ならば、そこの住人の多くがサラリーマンの率が高いはずです、そのために、帰宅が夕方遅くなり、日中の公園内での遊びで騒音がさほど問題にならずに済むかもしれません。これはマンションに住む人が会社勤めしているライフスタイルに関わる社会的な”制約”の問題です。ところが、在宅ワークが急増した現在では日中家で仕事をする人も多いため考慮する必要が出てきます。

こうした自然と社会の”制約”は簡単には動かせないため、「自由な遊び」の内容を実質的に制限してしまいます。

しかし、逆にそうした環境の個性を活かした遊びを別の形で創り出す可能性もできてきます。つまり、そこで大きなボールによる球技ができないなら、新たな遊びへの機会ともなるということです。それをどう工夫するかが、遊びを支援していく側の本欄の課題であり支援する力にもなってきます。

第3として法的な”制約”があります。法においての自由は憲法に定められたものであり、基本的人権の柱のひとつです。そのために、教育を受ける自由や政治、居住の自由など定められています。子どもの遊ぶ権利を正式に認めたのは「児童の権利憲章」ですが、その31条においては遊ぶことの権利とさらに意見を表明する権利がうたわれています。

「自由な遊び」という教育論は、世田谷区の成城学園初等学校の創設者だった沢柳政太郎が大正時代に提唱していたことで知られます。そんな歴史もあって同小学校では「遊び科」という特別授業がカリキュラムとして実践されています。そこの研究会に参加していたときにある教師が「自由って自律している子どもにこそ与えられるべきかと思う」という意見を述べていました。私もまったく同感です。

私たちはどうしても「自由な遊び」について、”自由”を称賛するコトバとして受けとめてしまいます。しかし、憲法では他者の人権を侵す”自由”は許されない大原則があります。それはむしろ、社会の中で生きていくうえで不可欠だからですが、その認識が欠けていないかどうか注意が必要でしょう。

最後に第4として親からの“制約”を考えておきたいと思います。その理由は「親ガチャ」(差別用語に相当)というコトバに示される貧困な家庭の親の不平等や虐待の問題があります。幼少期においては、この親との不適切な関係は他の3つの制約以上に大きな課題です。しかも、子どもは親を選べない以上は一生離れられない関係ですので、一時的な対処では真の解決にはなりません。

それほど根深いのが親の“制約”ということですが、家庭の事情はそれぞれ独自の課題があるため外部からはみえません。そのために子ども自身が適切な対処を選択するにも限界があります。しかも、オカルト的宗教の事件にみられるように、子どもが親をかばう意識が働いてしまい、本人が過剰に同調してしまうリスクも高くなります。

さらにいえば、客観的には異常な関係であっても親は子どもに過剰な期待をし、親の意志に従う素直さを求めます。その結果、親と同伴で公園に遊びに来たような場面では、本当に子どもが自分の意志でその遊びを選択しているか疑問な面も出てきます。というのも、そこは親の目があるゆえに、それに応えようとして親が喜びそうな遊びや、”親と一緒”に何かをするようなことが多くなってくるからです。

遊び論(5):「拡張された遊び」の視点

外遊びには多様な形があり、公園での球技や道路横でするメンコ、そしてスポーツの場として野球場やテニス・コートなどがあります。たとえば、昭和30年代の子ども達はメンコをよくしていました。とくに、当時の人気アニメのカードを集めたりして、自分や強い相手が持つカードには何か特別な力が宿るようなおまじないのようにして、カードを勝ち取る喜びを感じたものでした。そのカードの表紙には当時の人気キャラクターが描かれ、使うほど味の出るジーンズのような愛着を持つ特別な遊び道具だったのです。

子どもの遊びの多くはこうした道具利用が不可欠なものとしてあります。単純な遊びにも必ずそこに文化としての道具があるのです。砂遊びや水遊びも何も道具は使わないように見えるかもしれませんが、砂場やプールのように囲いをした”仕組み”があり、川や海での遊びのような場合でも、安全性を考慮した浮き輪や水中メガネなど使用しています。

こうした遊びでは文化的な影響が強く出ていますが、それだけでなく自分らしさも加える工夫を子ども自身でしていました。このような「遊びの自分化」(selfishness of play)にはどんな効果があるのでしょうか。

その第一が「子どもの文化」創りへのステップになるということです。メンコのような遊びの例でいえば、カードの表紙部分に当時流行しているアニメやキャラクターを使われています。そのお気に入りのものを手に入れようと、遊びの中で勝ち負けを競うことになります。そして、子どもは自分のカードの端を折り曲げたり、裏返しがしにくい形状になるように工夫したりします。それによって、カードは当人独自の仕様になり、ちょうどカスタマイズされた改良バイクのようにかけがえないモノとなってきます。

このような遊び道具へのこだわりや工夫の過程は、子どもが日常の多様な学びを実践する機会や場にもなってきます。メンコのカードの形状を自己流に変えてみることに気づき、カードを火であぶったり、その角をやすりで削ったりといった試す行為「先取り試行」をしてみるのです。様々な加工の仕方を試すことで、メンコ遊びに強いカードの形状が仕上がり、それを友人に教えてあげたりもするのです。

そうすることで、互いの友情を深めるだけでなく、文化の共有、具体的には知識としての技能の共有ができるようになってきます。これらの道具へのこだわりは同時に自分の”アイデンティティ”(自分らしさの核)とも重なるため、道具のでき具体はちょうどプロの職人のように普段から気にかけて改良を重ねていきます。文化としての道具から自分の道具への「遊びの自分化」がそこに反映されているのです。

つまり、メンコ遊びを通じて子どもが得るものは、ただ”楽しい”やその場で”したいこと”など一時的な快や場当たり的な欲求だけを満たそうとしているのではないことがわかります。もちろん、他の多様な遊びにおいては、そうした瞬間的で一時的な遊びの場面も多くあります。しかし、ここで確認しておきたいことは、遊びが文化としてどう子どもに影響し、また逆に子どもが文化の創造に関わるようになってくるかということです。

メンコ遊びはその典型的なものです。従来からも遊びの研究が明らかにしてきたことは、遊びの中で子どもは個人の身心の発達、たとえば子どもが自分への自信(自己効力感)を高めたり、チェレンジする意欲を持つことを実証してきました。ですが、ここでは個を越えた文化的な視点でみることの重要性を指摘しておきます。

これまでも文化的な側面から遊びを論じていた古典的な遊び理論を説いたホイジンガ―やカイヨワの諸説は、遊びの多様な形態を区分し、それらの特徴の背景を社会文化的な関連から説いています。その成果も踏まえたうえで、今後、遊びを「活動理論」(Y・エンゲストローム)の”活動”(activity)の単位で捉えていくことが重要になってきます。つまり、具体的な遊びの場で、子どもの行動とそれを媒介する”道具”との相互作用をテーマにした「拡張された遊び(Expanded Playing)」を検討していくことが求められるといえるでしょう。

遊び論(4):「ユートピア型」ではなく「ユニーク型」の公園へ

公園が子どもにとって理想の遊び場になることは一般的にはすばらしいことです。しかし、検討される必要があるのは「自由に遊ぶ」といった”理想郷”にする是非についてです。ここの公園にくれば「自由に遊ぶ」ができるのだから、子どもは何でも好きなように遊べるとみなすような支援の在り方についてです。

こうした発想は大人側の余計なお世話になってくる面がないといえるでしょうか?
現実に求められる遊びの実態からすると、このようなごく限られた公園を理想郷にする一方で、本来遊びとして利用できる公園その他公共のスペースが置き去りにされているように思えます。

たとえば、サッカーの騒音で悩んでいる公園が多いようですが、あるプレーパークでも同じようなことが続き、被害住民が周りの環境を活かせないか調べました。するとすぐ近くに高速道路下のサッカーができる運動場があったのですが、ほとんど使われていませんでした。徒歩で100mも行かないほどですが、ワーカは自分達の担当するエリアだけで遊ばせることに専念してしまい、それを利用するような案内・指導をずっと何年間もしていませんでした。つまり、その地域全体で遊びを創っていく見識を欠いていたのだといえます。

こうした認識の歪みは多くの教育家にもありがちなワナです。一度自分の経験で成功したりするとその狭い経験に固執してしまうからです。そして、環境や状況の違いを無視して、都合のよい面だけ強調して正当化しようとします。これは心理学では「確証バイアス」とよんでいる偏見の典型的な弊害です。このような自分達の公園内だけを子どものユートピアの場にしようとする「テリトリー意識」は、同じ公園で長年続けてきた場合はさらに強まってきます。しかし、これは遊びの場づくりを狭い理想郷にして歪めてしまうものです。必要なのは「ユートピア型」ではなく「ユニーク型」の公園だからです。一面的な子どもの理想郷を創るのではなく、各公園の個性と環境の”強み”を活かすという公園作りです。このような「ユニーク型」のプレーパークの在り方を提唱しているのは私だけではありません。他もない羽根木プレーパークの生みの親でもあった大村璋子・虔一夫妻です。大村璋子編著『遊びの力』(2009年発刊)では、遊びを支援する側の「ひとりよがり」を戒めて次のように述べています。

『遊び場には危ないだけでなく、汚いという苦情もあるのですが、世の中にはきれい好きな人もいるわけで、そういう工夫も必要かもしれません。景観的な配慮をすることで、地域との関わりができ、ふるさとづくりやまちづくりにつながる。自分達たちの楽しみだけでなく、周囲の人といっしょに遊び場を育てていくことになる。そういう発想になっていれば、日本での遊び場ももっと受け入れられるようになるのかもしれません。ひとりよがりでなく。』(同著p181)

また同著の中で夫の大村虔一は次のように警鐘を鳴らしています。
『今の状況を見ても、あそこに”プロの遊ばせ屋さん”がいるから、あそこに子どもを預けると子どもが賢くなるという思いで、子どもを遊びに行かせている保護者がいるのではないか。そういうスタイルで冒険遊び場が広がった部分があるのではないかと危惧している。子どもが本気になって、いきいきと遊ぶことが大事なのだという方向にいかないといけない。全国に、冒険遊び場の数を増やすことだけを考えていないか。気にしている。単なる遊びだけじゃなく、子どもの生活そのものを問題にしないといけない。そのときそのときを自ら楽しめる暮らし。それがないといきいきした子どもが育たない。』(同著p157)
こうした大村夫妻の主張からわかることは、遊び自体は子どもに不可欠なものですが、同時にそれは”生活の一部”であり全体ではないという見方ではないでしょうか。

遊び論(3):「大人VS子ども」の認識の罠

「大人が子どもの成長を歪めている」や「大人が子どもの遊びを奪ってる」といった声が、遊び支援する団体から聞かれます。この“大人”とはいったい誰なのか気になるところです。なぜかといえば、そうした問題を引き起こしているものは一般的な“大人”ではないからです。子育てや遊びに関連する原因は“大人”といったコトバで説明できるものではありません。それが親なのか教師か行政かなど、大人の内容がむしろ問題だからです。そして、この社会の制度的な全体、“文化的装置”としての企業や学校、行政などの役割を無視して一般の“大人”に原因を解消するような見方は現実の認識を歪めるものです。

さらに問題の根本にあるのは、この数十年で大きく変わった生産や消費中心の生活だけでなく、富める者との格差や貧困といった“矛盾”です。そうした“矛盾”は教育制度を含む子育ての歪みを生み出し、それを拡大再生産しています。このような考えは1970年代から社会哲学者のイヴァン・イリイチが『脱学校論』の著書で警告して教育革新の必要性を説いていました。

そうした現状を社会全体として理解することが必要なのに、子どもの遊びの問題を単純に「大人vs子ども」の対立として描くのは本質を見誤ってしまうことになります。そこには子どもを一面的に”善”として、大人は”悪”とするようなかつての大正ロマン主義教育と言われた古臭い児童観があるからです。この教育思想は大正時代に大きなブームになり、世田谷区の成城学園初等学校がその中心となっていました。また文壇においても武者小路実篤が有名ですが、「自由の村」の社会運動もそうした流れから生まれたものです。これらの児童中心の思想は進歩的な面も当時ありましたが、子どもを理想化したうえで汚染された大人と距離を置く。そういった純粋培養の子どものユートピアを創ろうとしたものでした。

子どもは大人に向かいつつ成長する”未来の大人”です。当然ながら、そこに現在の大人とのギャップもありますが、同時に学ぶことを通じて現在の大人を越えていく可能性があります。そうした未来への期待をかけてサポートしていくことが、教師だけでなく社会や地域がすべきことであるはずです。そのために必要なことは何か、次のようなことがすでに先進的な実践で示されているものです。

1:親は仕事と家庭のバランスのよいライフスタイルを実践して自らも幸せである
2:親は子どもの発達・教育に関して支援的であり自律を促すようにしているか
3:親は社会への貢献をめざした仕事観を持ち自らが学び続けているか

上記のことは一人一人の親に求められる課題ですが、とくに3番目は親も学びを続ける対象として、従来の生涯学習論を越えて成人発達論としての新しい見方だといえます。
こうした学びの視点は、現在の社会においてその矛盾を解決できないでいるという認識につながるものです。そこには現在の競争社会が抱える矛盾と同時に、日本の男女差別や多様性を認めない同調社会の問題が広く横たわっています。つまり、個人を越えた社会的な自治や人権にかかわる民主主義によって変えていく必要に迫られる課題なのです。

遊び論(2):子どもとの”対話”と実践例

「子ども中心主義」という理念をただの標語ではなく、子どもの”自律”へと発展させている施設があります。横浜市にある「りんごの木」という保育施設であり、ここでは各クラスが幼児数30~40人、担任が2~3名だといいます。同園は「大人が”どういう子に育てたいか”ではなく、”幼児一人一人がどう育とうとしているのか”を重視」(※文献p52)しているといいます。そのための具体化として、次のような実践をします。

「幼児が自由に遊び込んだ後の11時過ぎから30~60分の時間をかけ、車座に椅子を並べて座る形で話し合いが行われ、保育者も輪の中に入るという。そこで遊びのこと、喧嘩のこと、友だちのこと、家族のこと、その日あったこと、ふしぎに思っていることなどの出来事をテーマに、保育者と幼児がワイワイガヤガヤ、相互に言葉を介して話し合うことで、お腹をかかえて笑い合ったり、大激論になったりする。必ずしも結論がすぐに出るわけではないけれども、幼児が自分の言葉で語り、心のモヤモヤを出し、そして考える。」(同p52)

この実践がユニークなのは、4~5歳児が互いの気持ちを素直にコトバとして表し、一見するとネガティブな喧嘩のような場面も受け入れていることです。一般的な方法では保育者がその子の内面をくみ取るようなことが強調されてしまい、子ども同士が話し合いで解決をするようなことはありません。ところが、同園ではそんな本音での語りを保育者も一緒になって、クラス全体の”対話”の中でしているというのです。

実際の語りの場面を紹介した部分を下記に引用しておきます。
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カナメ:(私がステージでピアノを弾いたら)お客さんにピアノ間違っていると思われているよってマユチンに言われて嫌な気持ちになった・・・
マユチン:(突然泣き叫びながら)なんで今、それを言わなきゃだめなの?みんなの前では言って欲しくなかった
園長:でもマユチンが言った言葉で、カナメが嫌な気持ちになったんだから仕方ないじゃない
マユチン:(泣きながら)そんなこと簡単に口出ししてほしくない!
カナメ:(叫びながら)
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※【文献】中坪史典『幼児教育における”子ども中心主義”の理念に潜在する問題』(2015)

遊び論(1):「自由な遊び」と「ルール化」

最近、都内の公園などで細かなルール・規制が看板に掲示されているのが目につきます。それによって、小さな子どもなら問題にならない程度の球技でも禁止されるようなことがおきます。同じようなことで、学校分野では髪の毛を染めてはいけない等の理不尽な「校則」なども問題でしょう。こうした細かな「ルール化」による規制は、昭和から平成にかけて強化されてきました。そうしたルールの固定した解釈ではなく、現場の実態に即した「ルール化」が問われてきています。

一方ではこうした公園のルールによる禁止が必要なケースも多くあります。近隣住民が生活権を求めて騒音などの苦情も現実的に増えているためです。そこには経済の一極集中による「都市化」の矛盾が現れている面があります。その矛盾の結果として都内の空き地はマンションに替わり、広い場所を確保するのも難しくなりました。20年前なら気軽に焚火もできた公園も、今ではできないような環境の変化が生まれているのです。
そんな公園の環境の変化を無視して固定的に遊びを捉えたり、ルール自体があたかも「遊びを奪っている」とする見方は住民とのトラブルの原因になってきます。また、そうした意見を掘り下げてみると、それを語る側の支援側のスタッフや親がルールを改善していく積極性がないことに気づきます。つまり、「ルールが自分たちを束縛している」という”被害意識”があり、”自由”と”ルール”が相反するものと思い込んでいるのです。

これは社会の中でルールがどうあるべきかという問題でもあります。また、一時的な解決を優先しがちな行政の問題も絡んでくるものですが、問題点を要約すれば行政側と支援団体側からの次の点があげられます。
 1:行政が公園に一律的に適用しているために遊びが不当に制限されている
 2:行政の規制の見直しをすべきだが、支援側が一面的なルール否定”に陥っている「野球・サッカーを禁止」とするような遊びの禁止の掲示は、それ以外の遊びの球技ならば問題はないのかということになりますが、遊びの多様性からするとこの告知では不十分なものです。そこに理由も書かれていませんので、当然受け取る側は禁止事項への反発心を持つだけで、その抜け穴を探そうとしてしまいます。このような場面では禁止自体のメッセージにより「心理的リアクタンス」(反抗心)が高まりやすいことが心理学でわかっています。禁止事項を増やせばそのような反抗心も逆に高まり、告知のルールを無視するような行為につながるわけです。

こうした悪循環を繰り返す限り、根本的な解決への道はないことは明かです。そこで現在、ルール作りの在り方全体を見直すルールメイキング(※参考:苫野一徳ほか著『校則が変わる、生徒が変わる、学校が変わる/みんなのルールメイキングプロジェクト』)の改善運動などが全国レベルでおきています。とくに校則などの改善が典型的ですが、すでに多くの学校が取り組み始めています。たとえば、千代田区の麹町中学校や世田谷区の桜が丘中学校では、従来のルールの見直しをしたうえ原則的なものを残して撤廃してきました。それでも成績が下がったわけではなく、むしろ個性を尊重する学校に変わったということで注目されています。