公園遊び(4):子どもの遊び文化を発展させる

子どもが本当に「焚火で遊びたい」というなら子どもの遊び文化の中で評価・注目もされて遊び文化の歴史にも残っているはずです。ところが、子どもの遊びを調べた調査(※参考:)でも、焚火の遊びは昭和世代から現在までベスト10にも入らず、それが楽しい遊びとしてあがってもいません。焚火自体を遊びとしているのはキャンプや焼き芋作りなど、豊かな自然の中で活動全体です。あるいは珍しい食の体験(焼き芋)のようなイベント的なものであって、子ども本来が日常でする遊びとは区別されたものなのです。

さらに、ここで注目しておきたいのは、焚火遊びが子ども以上に大人に人気や関心ある点です。この理由については子ども遊びのリーダー達にも取材・調査してきましたが、その結果わかったことは、焚火を囲んだ語り合いという交流の癒し効果がその理由だということです。

つまり、大人側が親同士や子どもとの交流を楽しめる点が焚火評価の人気の理由なのです。大人はゆったりとその場で語り合うような癒しの場に満足を覚えるようです。ですが、子どもは燃える炎に最初だけ興味を持ってもすぐ離れて別のことをしたりしているのです。

さらに文献調査などしてみると、焚火をする遊びは歴史的にも子ども文化の中では限定的ものであることがわかります。継続した遊びのための焚火などは、子ども自身は全国どこでも実際にはほとんどしていません。つまり、焚火遊びの提唱者らが言うような「子どもがしたい」からではなく、むしろ支援する大人側の要求として焚火が必要だったということです。

もちろん、都心の子どもが多様な経験を得る機会としての意義はあります。ですが、子どもの自律した遊び文化を極端に大人側の都合で変えてしまうリスクがあります。あえてそれを特定の方法(バーベキュー等)で楽しくもできますが、それはまた別の食べる欲求に合わせたイベントであり、遊びそのものを変えてしまう問題があるわけです。

プレーパークとして焚火をする活動は羽根木公園でうまくいったというのは、その場所がでこぼこの土地であったりしたためだといえます。焚火以外でボール遊びをするのにも不自由であり、そのために工夫した焚火が近隣の住民にもそれほど影響を与える場ではなかったからでしょう(※23年6月現地調査済み)。

公園遊び(3):焚火遊びの問題性

「公園での焚火」は遊びの手段であるものを目的にすり替えてしまう危険があります。その問題点は整理すると次の3点です。
 1:焚火が子どもの遊びの選択肢となるのは適切な環境条件においてである
 2:焚火を制度化することによって、本来の多様な子どもの遊び文化を阻害してしまう
 3:狭い公園で焚火遊びを”制度”にするのは子どもの自律を妨げる過剰サービス

環境条件、遊び文化、過剰サービスというコトバは相互に関連し合った問題です。焚火そのものは子どもの遊びの手段であるにもかかわらず、大人側がそれを狭い公園内で”制度”のようにしてしまう。これは子どもの遊びにとっては「主体性」を妨げるもの、つまり”自分達同士”で遊ぶという原則からすると「過剰サービス」です。そして、そうした過剰サービスは逆に子どもの自律と遊び文化を歪めてしまうということです。
佐伯胖や工藤勇一らの著書にも強調されているように、遊びは「子どもの文化」であり、大人が勝手に自分達の価値観で誘導させるようなことは控えるべきなのです。

世界を中心にしたプレーパーク運動はイギリスを本部にしており、私も3年前から直接その本部会員になっています。それがIPA協会(イギリス本部)ですが、とくに子ども同士が自分達で遊ぶ中で工夫できる余地が多いことを重視します。それを見守る態度と立場こそ、本来の公園内での遊びをサポートする側のすべき事とみなすからです。

それに対して一部のプレーパークでは、焚火のしやすい“セット”(炭火)にしたり、毎日できるように事前に準備をしておくなど大人側が中心となってしまい“制度化”をしています。これは現実には手取り足取りの大人側のおせっかいの「過剰サービス」になってしまっています。これは自律した子どもの遊びからすると、「遊びの多様性」を妨げる面があるのではないかと疑問になるところです。

とくに遊びの手段である焚火を”素材として不可欠”として「制度化」してしまう問題は根深く、またそれを実施するために狭い公園内であってもエントツまで立てようとまでします。
こうした焚火遊びを特別なものと信じているプレーワーカ側の主張を調べると、そこには主に3つの次のような見方があるといえます。
1:【生活必需説】火は水、土、空気のように人が生きる生活に欠かせないものだ
2:【感覚統合説】火の熱さの感覚刺激が他の感覚と統合され発達を豊かにする
3:【世代交流説】世代の違う大人と子どもが居場所として感じられる場になること

エントツは煙を上空に拡散するだけで、煙を無くすものではなく、近隣のマンションに煙害としての被害を与える可能性が高いことに変わりはありません。長期的にみたときには自然の中で遊びを育てる点で、メリットよりもデメリットのほうが大きいはずです。単にその特定の遊びをさせるためにエントツをよいかどうかでなく、自然の景観を含む環境保全や心身への影響など広い視野から考えなくてはならないものです。

ところが、そうした生活全体の視点が欠けており、ただ遊びを目的化した焚火論でしか語っていないようなプレーパークも一部にみられます。それを委託事業としている行政側も焚火とプレーパーク事業はセットだと考えてしまっているのです。

公園遊び(2):発達理論の3タイプ

日常の遊びを考えるときに次のような発達の科学を知っておくことが重要です。
1:生理モデル⇒遊ぶこと自体が遺伝的な本能の現れとして遊ぶ行動が生まれる
2:動機モデル情動による”したい”という欲求が動機となり遊ぶ行動が生まれる
3:生態モデル遊ぶ行動を誘発する生態的な場の作用により遊ぶ行動が生まれる

1番は遺伝的な本能による生理的なもので、最初から遊びの要因が生体に組み込まれているとみなします。2番は遊びの動機を情動(感情)という心理的な原因だとするもので、心理学者には支持されやすいものです。そして3番は自己と外界の生態的な相互作用を軸にしたものです。この3番目が2000年以降の発達心理学や認知科学による遊びの科学的な考え方であり、環境側の生態的な相互作用の影響を重視するものです。

一般的な幼児教育で主流とみなされているのが2番の「動機モデル」であり、プレーパークの関係者の多くもそれに近い考え方ですが、1番はほとんど今の専門家の間では支持されていません。

そこで問題になるのが、この2番の動機モデルが遊びの原理とした場合になります。それは動機の要因が何かをテーマにしていますが、個人の内側にある”情動”(感情)に還元してしまうことが問われてくるのです。

人の発達の全体をみるなら情動的なことはその一面であり、全体を説明するものではありません。この点は非常に心理学の原理となるところで重要なのです。情動についての限界をよく知るうえでも、まずは発達心理学で知られるピアジェを理解しておく必要があります。

ピアジェは「幼少期」(幼稚園までの時期)において、子どもは「自己中心な思考」だとして「発達段階説」で説きました。それが幼児の感情に左右される思考の段階だとみなすためです。そのため、幼児が「自制心」など働かせるのも難しいとするのです。このことは発達理論の常識として知られますが、このピアジェの発達論は80年代後半ごろから批判されます。

とりわけ、生物的な発達上の影響よりも”社会性”が問われるようになりますが、その批判の立役者がヴィゴツキーです。彼は今や「心理学のモーツァルト」とも言われ、その社会や文化の生態モデルの理論は、教育革新の先端を走るフィンランドの教育省が取り入れているものです。

この説の特徴は人の思考・情動といった内的な心理作用を、個人の内側だけではなく社会・文化の全体的な相互作用とみなすところです。その社会性の原理の中心が「発達の最近接領域」であり、大人と子どもの間で共有していく文化の参加過程に注目するものです。

詳しいことは私の恩師でもある佐伯胖(元認知科学学会長)の著作『幼児教育へのいざない』が参考になります。彼は「認知科学」の学術分野のリーダーとして知られ、2000年代からは幼児教育に力を入れています。「認知科学」というのは人の思考・記憶・感情など総合的な科学ですが、この観点から幼児教育だけでなく企業の人材育成にも革新をもたらしました。

そして、もう一人の恩師でもある柴田義松(東大名誉教授)はヴィゴツキーを日本に初めて紹介した研究者です。私は運よくこの二人から大学で指導を受けたことから、後に東大医学部の研究者らと日本初の認知科学のコンサル会社(株:認知科学研究所)を創設しました。その後、アップル社やNECなどのコンサルの機会を得て、多くの人材教育に従事してきた経緯があります。

公園遊び(1):「日常の遊び」から考える

プレーパークのような子どもの遊びの支援団体が各地にあり、公園では400か所ほどになっています。私はそのプレーパークのリーダー達を調査したりネット対談で意見を交わしたりしています。ちょうど自宅前が公園でもあり、いつも子どもや親の姿が目につくのでどんな遊びが流行っているのかよくわかります。

プレーパークは外遊び支援の在り方として行政が委託事業としても位置付けており、そこの公園は子どもが「自分の責任で自由に遊ぶ」を理念とした場所となっています。そのため、かなりイベント的なことも最近は多くなりました。

そんな中で都内の一部のプレーパークでは焚火自体が不可欠として、大人が準備をかなりして焚火遊びを促すようなこともしています。たとえば、焚火で親子の交流など焼き芋作りをするなどです。焚火自体はその周辺が煙害などおきない場所で、子どもがしたいのならイベント的にするのは大人との交流にもなり良いことです。幼児などに新鮮な体験としてならプラスにもなることだからです。

ところが、それを住宅街の中の狭い公園でも週に何回もする形で、焚火遊びを“制度化”してしまうケースがあります。ネットで検索してもあちこちでトラブルが起きているようですが、現場のプレーワーカや世話人らの支持者達はどうしてもやりたいようです。

そこまでして子どもにさせる意義は何か、それを現地調査や遊び支援団体に聞き取り調査してみるとわかってきたことがあります。