ハラスメントには対人関係を含む社会的なコミュニケーションの”構造”がそこにあります。他のコミュニケーションの構造とどこが異なるのか、それはどんな特徴を持つのかを中心にここで検討してみましょう。
ハラスメントでは相手を攻撃するための独特のコトバが使用され、その効果が周囲にいる仲間によってさらに拡大していくという特徴があります。たとえば、公園利用の事例では、子ども遊びを支援する団体のケースで「子どもの遊び奪っている」という住民への批判のコトバがあげられます。このコトバを発する状況を観察してみると、その理事の独特の社会観が反映されていることがわかります。それは「大人VS子ども」という対立構造を軸にした社会全体への一面的な見方です。そして、この対立関係を支えるのが「大人のルール」というもう一つのコトバです。「子どもの遊ぶ自由が奪われている」という論理が、この二つのコトバが結び付いたストーリとして語られていきます。
このようにハラスメントのコトバは単独でというよりも、他のコトバと結びつきながら自らの正当性を支えているのです。たとえば、ハラスメントに関連したプラス的なコトバとネガティブなコトバを左と右に分けて対比してみると次のようになります。
【1】「子どものやりたいをやらせてあげたい」
⇒<妨げるものは?>⇒「大人のルール」=つまり被害住民
【2】「子どもは自由な遊びで育つ」⇒<妨げるものは?>
⇒「学校の勉強」=つまり学校教師
このようなコトバは所属する集団内での特有な「常識」(コモンセンス)になっていきます。彼らの中で行われてきた経験とそのコトバは密着しており、特別なニュアンスや意味が付加されていきます。たとえば上記【1】の場合、被害住民からのクレームは「大人のルール」の現れとして扱われ、それは「やらせてあげたい」とする焚火遊びなどを妨害する相手になってしまいます。
それによって、そのためにいかに集団の結束を固めて自分達の”正義”を守るかということになり、対立する相手を排除していこうとする意識(※「内集団バイアス」)が強化されていきます。同じように【2】でも、「自由な遊びで育つ」ことを妨げるものが「学校の勉強」であり、それを担う学校教師が問題だとする見方になります。
これらはいずれもが主張していることが一面的であるの点が特徴ですが、ここにハラスメント問題が生まれる土台があります。単なる個人の問題に解消できない面がそこに隠れているからです。
とりわけ、加害側の集団内ではハラスメントのコトバは悪いイメージのものではなく、「常識」のひとつとして認識されている点に注意が必要です。それは何度も様々な場面で語ることで、集団内部で常識の度合いも強まっていくからです。いかにそれが一般社会の常識とズレていたとしても、そこの内部では当然のことだと認識されているわけです。