”楽しい”というポジティブな感情はどこから生まれてくるのだろうか。この心理学の課題は以外に難しい。
投稿者: 匠英一
公園遊び(5):”対話”する能力の欠如
平成時代の現在、子どもにみられる発達的な課題は何か。このテーマは社会と人間の生きた関係づくりに関わる問題です。嫌われる勇気で有名になった心理学者アドラーは、自分が家庭や職場のような共同体の仲間だと感じる心理を重視し、それを「共同体感覚」とよんでいます。端的に言えば人に共感し信頼する心のことですが、その共同体感覚が欠ける子どもは他者に関心はなく、結果として自己中心的にならざるをえないというのです。
このような自己中心的な子どもが増えてきている現実は、私自身が大学で20年間教えてきた経験からも実感しています。20年前の学生らは授業の中で叱られても、それを逆ギレするような者はいませんでした。ゼミに入ってから途中で”辞める”という者もほとんどいなかったのです。ところが、ここ2015年ごろから、注意したことに逆切れするような行動がみられるようになりました。
その学生に後で冷静になったときにどうしてかと聞くと、親から「叱られた経験がない」というのです。このような傾向は全国的な傾向でもあり、家族間でも「ほめて育てよ」といった一面的な教育観が背景があるようです。そのため他者から叱られる事に過剰なストレスを受けるのです。それは言い換えると、自らの経験を内省する経験がないという問題だと考えられるわけです。アドラーの「共同体感覚」が失われてきている裏返しともいえます。
そして、このような自己中心的な子どもが増える原因ともなっているのは、対話をする経験の欠如ではないでしょうか。ここでいう“対話”とは、自分の考えを人にわかる形で表現し、互いの違いを理解し合う日常経験のことです。日本の働き改革でも知られるように、夫が不在で妻だけに子育てを任せるようなケースでは、妻はどうしても子どもに過剰な世話や期待がしがちとなります。その結果、子どもへの期待が高くなり、自分も嫌われたくないことから「したいこと」をそのままさせてしまう傾向が高くなります。
そんな子どもにとって、他者から何かの理由で叱られたりすることは耐え難いはずです。たとえば、公園を利用する場合、自分達がサッカーをやりたいとグループで始めたとします。狭い公園内では当然そこに騒音に悩む住民も出てきます。その際に、通常は住民がクレームや”叱る”ことにもなるわけですが、子どもは反発感や違和感しかありません。これまで親からほとんど叱られたことがない、あるいは他者に関心がなく遊び以外には何の関心も持たないためです。
まず、ここで発達心理学が明らかにした見方を確認しておきます。それは子どもが大人との「発達の最近接領域」があってこそ、優れた発達が達成できるようになるということです。これは「心理学のモーツアルト」ともいわれた発達心理学者のヴィゴツキーの指摘する考えです。それがどれほど重要なことかをいくつかの次の回で解説しましょう。
公園遊び(4):子どもの遊び文化を発展させる
子どもが本当に「焚火で遊びたい」というなら子どもの遊び文化の中で評価・注目もされて遊び文化の歴史にも残っているはずです。ところが、子どもの遊びを調べた調査(※参考:)でも、焚火の遊びは昭和世代から現在までベスト10にも入らず、それが楽しい遊びとしてあがってもいません。焚火自体を遊びとしているのはキャンプや焼き芋作りなど、豊かな自然の中で活動全体です。あるいは珍しい食の体験(焼き芋)のようなイベント的なものであって、子ども本来が日常でする遊びとは区別されたものなのです。
さらに、ここで注目しておきたいのは、焚火遊びが子ども以上に大人に人気や関心ある点です。この理由については子ども遊びのリーダー達にも取材・調査してきましたが、その結果わかったことは、焚火を囲んだ語り合いという交流の癒し効果がその理由だということです。
つまり、大人側が親同士や子どもとの交流を楽しめる点が焚火評価の人気の理由なのです。大人はゆったりとその場で語り合うような癒しの場に満足を覚えるようです。ですが、子どもは燃える炎に最初だけ興味を持ってもすぐ離れて別のことをしたりしているのです。
さらに文献調査などしてみると、焚火をする遊びは歴史的にも子ども文化の中では限定的ものであることがわかります。継続した遊びのための焚火などは、子ども自身は全国どこでも実際にはほとんどしていません。つまり、焚火遊びの提唱者らが言うような「子どもがしたい」からではなく、むしろ支援する大人側の要求として焚火が必要だったということです。
もちろん、都心の子どもが多様な経験を得る機会としての意義はあります。ですが、子どもの自律した遊び文化を極端に大人側の都合で変えてしまうリスクがあります。あえてそれを特定の方法(バーベキュー等)で楽しくもできますが、それはまた別の食べる欲求に合わせたイベントであり、遊びそのものを変えてしまう問題があるわけです。
プレーパークとして焚火をする活動は羽根木公園でうまくいったというのは、その場所がでこぼこの土地であったりしたためだといえます。焚火以外でボール遊びをするのにも不自由であり、そのために工夫した焚火が近隣の住民にもそれほど影響を与える場ではなかったからでしょう(※23年6月現地調査済み)。
公園遊び(3):焚火遊びの問題性
「公園での焚火」は遊びの手段であるものを目的にすり替えてしまう危険があります。その問題点は整理すると次の3点です。
1:焚火が子どもの遊びの選択肢となるのは適切な環境条件においてである
2:焚火を制度化することによって、本来の多様な子どもの遊び文化を阻害してしまう
3:狭い公園で焚火遊びを”制度”にするのは子どもの自律を妨げる過剰サービスだ
環境条件、遊び文化、過剰サービスというコトバは相互に関連し合った問題です。焚火そのものは子どもの遊びの手段であるにもかかわらず、大人側がそれを狭い公園内で”制度”のようにしてしまう。これは子どもの遊びにとっては「主体性」を妨げるもの、つまり”自分達同士”で遊ぶという原則からすると「過剰サービス」です。そして、そうした過剰サービスは逆に子どもの自律と遊び文化を歪めてしまうということです。
佐伯胖や工藤勇一らの著書にも強調されているように、遊びは「子どもの文化」であり、大人が勝手に自分達の価値観で誘導させるようなことは控えるべきなのです。
世界を中心にしたプレーパーク運動はイギリスを本部にしており、私も3年前から直接その本部会員になっています。それがIPA協会(イギリス本部)ですが、とくに子ども同士が自分達で遊ぶ中で工夫できる余地が多いことを重視します。それを見守る態度と立場こそ、本来の公園内での遊びをサポートする側のすべき事とみなすからです。
それに対して一部のプレーパークでは、焚火のしやすい“セット”(炭火)にしたり、毎日できるように事前に準備をしておくなど大人側が中心となってしまい“制度化”をしています。これは現実には手取り足取りの大人側のおせっかいの「過剰サービス」になってしまっています。これは自律した子どもの遊びからすると、「遊びの多様性」を妨げる面があるのではないかと疑問になるところです。
とくに遊びの手段である焚火を”素材として不可欠”として「制度化」してしまう問題は根深く、またそれを実施するために狭い公園内であってもエントツまで立てようとまでします。
こうした焚火遊びを特別なものと信じているプレーワーカ側の主張を調べると、そこには主に3つの次のような見方があるといえます。
1:【生活必需説】火は水、土、空気のように人が生きる生活に欠かせないものだ
2:【感覚統合説】火の熱さの感覚刺激が他の感覚と統合され発達を豊かにする
3:【世代交流説】世代の違う大人と子どもが居場所として感じられる場になること
エントツは煙を上空に拡散するだけで、煙を無くすものではなく、近隣のマンションに煙害としての被害を与える可能性が高いことに変わりはありません。長期的にみたときには自然の中で遊びを育てる点で、メリットよりもデメリットのほうが大きいはずです。単にその特定の遊びをさせるためにエントツをよいかどうかでなく、自然の景観を含む環境保全や心身への影響など広い視野から考えなくてはならないものです。
ところが、そうした生活全体の視点が欠けており、ただ遊びを目的化した焚火論でしか語っていないようなプレーパークも一部にみられます。それを委託事業としている行政側も焚火とプレーパーク事業はセットだと考えてしまっているのです。
公園遊び(2):発達理論の3タイプ
日常の遊びを考えるときに次のような発達の科学を知っておくことが重要です。
1:生理モデル⇒遊ぶこと自体が遺伝的な本能の現れとして遊ぶ行動が生まれる
2:動機モデル⇒情動による”したい”という欲求が動機となり遊ぶ行動が生まれる
3:生態モデル⇒遊ぶ行動を誘発する生態的な場の作用により遊ぶ行動が生まれる
1番は遺伝的な本能による生理的なもので、最初から遊びの要因が生体に組み込まれているとみなします。2番は遊びの動機を情動(感情)という心理的な原因だとするもので、心理学者には支持されやすいものです。そして3番は自己と外界の生態的な相互作用を軸にしたものです。この3番目が2000年以降の発達心理学や認知科学による遊びの科学的な考え方であり、環境側の生態的な相互作用の影響を重視するものです。
一般的な幼児教育で主流とみなされているのが2番の「動機モデル」であり、プレーパークの関係者の多くもそれに近い考え方ですが、1番はほとんど今の専門家の間では支持されていません。
そこで問題になるのが、この2番の動機モデルが遊びの原理とした場合になります。それは動機の要因が何かをテーマにしていますが、個人の内側にある”情動”(感情)に還元してしまうことが問われてくるのです。
人の発達の全体をみるなら情動的なことはその一面であり、全体を説明するものではありません。この点は非常に心理学の原理となるところで重要なのです。情動についての限界をよく知るうえでも、まずは発達心理学で知られるピアジェを理解しておく必要があります。
ピアジェは「幼少期」(幼稚園までの時期)において、子どもは「自己中心な思考」だとして「発達段階説」で説きました。それが幼児の感情に左右される思考の段階だとみなすためです。そのため、幼児が「自制心」など働かせるのも難しいとするのです。このことは発達理論の常識として知られますが、このピアジェの発達論は80年代後半ごろから批判されます。
とりわけ、生物的な発達上の影響よりも”社会性”が問われるようになりますが、その批判の立役者がヴィゴツキーです。彼は今や「心理学のモーツァルト」とも言われ、その社会や文化の生態モデルの理論は、教育革新の先端を走るフィンランドの教育省が取り入れているものです。
この説の特徴は人の思考・情動といった内的な心理作用を、個人の内側だけではなく社会・文化の全体的な相互作用とみなすところです。その社会性の原理の中心が「発達の最近接領域」であり、大人と子どもの間で共有していく文化の参加過程に注目するものです。
詳しいことは私の恩師でもある佐伯胖(元認知科学学会長)の著作『幼児教育へのいざない』が参考になります。彼は「認知科学」の学術分野のリーダーとして知られ、2000年代からは幼児教育に力を入れています。「認知科学」というのは人の思考・記憶・感情など総合的な科学ですが、この観点から幼児教育だけでなく企業の人材育成にも革新をもたらしました。
そして、もう一人の恩師でもある柴田義松(東大名誉教授)はヴィゴツキーを日本に初めて紹介した研究者です。私は運よくこの二人から大学で指導を受けたことから、後に東大医学部の研究者らと日本初の認知科学のコンサル会社(株:認知科学研究所)を創設しました。その後、アップル社やNECなどのコンサルの機会を得て、多くの人材教育に従事してきた経緯があります。
公園遊び(1):「日常の遊び」から考える
プレーパークのような子どもの遊びの支援団体が各地にあり、公園では400か所ほどになっています。私はそのプレーパークのリーダー達を調査したりネット対談で意見を交わしたりしています。ちょうど自宅前が公園でもあり、いつも子どもや親の姿が目につくのでどんな遊びが流行っているのかよくわかります。
プレーパークは外遊び支援の在り方として行政が委託事業としても位置付けており、そこの公園は子どもが「自分の責任で自由に遊ぶ」を理念とした場所となっています。そのため、かなりイベント的なことも最近は多くなりました。
そんな中で都内の一部のプレーパークでは焚火自体が不可欠として、大人が準備をかなりして焚火遊びを促すようなこともしています。たとえば、焚火で親子の交流など焼き芋作りをするなどです。焚火自体はその周辺が煙害などおきない場所で、子どもがしたいのならイベント的にするのは大人との交流にもなり良いことです。幼児などに新鮮な体験としてならプラスにもなることだからです。
ところが、それを住宅街の中の狭い公園でも週に何回もする形で、焚火遊びを“制度化”してしまうケースがあります。ネットで検索してもあちこちでトラブルが起きているようですが、現場のプレーワーカや世話人らの支持者達はどうしてもやりたいようです。
そこまでして子どもにさせる意義は何か、それを現地調査や遊び支援団体に聞き取り調査してみるとわかってきたことがあります。
ハラスメント論(3):「大人のルール」が“悪い”による正当化
「大人のルール」が「子どもの遊びを奪っている」というルール否定を語るストーリは、大人か子どもかの対立関係を強調することが特徴です。たとえば、ある都内住宅街のプレーパークの例でみると、遊び支援のNPO理事が「大人の文句ばかりで遊ぶ場がない」というコトバで、住民がクレームする事に対して非難していました。さらに加えて、被害側に「なぜ引っ越ししないのか」と非難したり、「子どもの遊ぶ自由のために早く引っ越すべきだ」という「子どものため」という大義が一面的に強要されたりしていました。
こうした一面化された”正義”のストーリにより、語る当人達は意識していないとしても、被害を受ける住民に対して子どもへの”罪悪感”を与えようとします。その”罪悪感”を被害住民に認めさせる必要があるからこそ、「あなた達は子どもの遊びを奪ってる」と非難するというわけです。
このストーリからすると公園の条例も「大人が勝手に決めたルール」として否定することになります。それは「自由に遊ぶ」ことを妨げるものとされ、そのために公園内の看板にある「サッカーや野球は迷惑にならないようにしましょう」のような注意書きは、園内の子どもに無視されてしまうことになってしまいます。自由な遊びを邪魔する”大人が悪い”という単純化した考え方が浸透し、そこで遊ぶ子ども達も植え付けられてしまうのです。
こうしたひとりよがりな”正義”のストーリこそ、モラルハラスメントを生み出す要因になってきます。それが向かう方向は子どものためではなく、むしろ大正時代に流行った大人否定の「児童中心主義」のような偏った教育論にはまってしまいます。
ハラスメント論(2):コトバが持つ悪循環の構造
ハラスメントには対人関係を含む社会的なコミュニケーションの”構造”がそこにあります。他のコミュニケーションの構造とどこが異なるのか、それはどんな特徴を持つのかを中心にここで検討してみましょう。
ハラスメントでは相手を攻撃するための独特のコトバが使用され、その効果が周囲にいる仲間によってさらに拡大していくという特徴があります。たとえば、公園利用の事例では、子ども遊びを支援する団体のケースで「子どもの遊び奪っている」という住民への批判のコトバがあげられます。このコトバを発する状況を観察してみると、その理事の独特の社会観が反映されていることがわかります。それは「大人VS子ども」という対立構造を軸にした社会全体への一面的な見方です。そして、この対立関係を支えるのが「大人のルール」というもう一つのコトバです。「子どもの遊ぶ自由が奪われている」という論理が、この二つのコトバが結び付いたストーリとして語られていきます。
このようにハラスメントのコトバは単独でというよりも、他のコトバと結びつきながら自らの正当性を支えているのです。たとえば、ハラスメントに関連したプラス的なコトバとネガティブなコトバを左と右に分けて対比してみると次のようになります。
【1】「子どものやりたいをやらせてあげたい」
⇒<妨げるものは?>⇒「大人のルール」=つまり被害住民
【2】「子どもは自由な遊びで育つ」⇒<妨げるものは?>
⇒「学校の勉強」=つまり学校教師
このようなコトバは所属する集団内での特有な「常識」(コモンセンス)になっていきます。彼らの中で行われてきた経験とそのコトバは密着しており、特別なニュアンスや意味が付加されていきます。たとえば上記【1】の場合、被害住民からのクレームは「大人のルール」の現れとして扱われ、それは「やらせてあげたい」とする焚火遊びなどを妨害する相手になってしまいます。
それによって、そのためにいかに集団の結束を固めて自分達の”正義”を守るかということになり、対立する相手を排除していこうとする意識(※「内集団バイアス」)が強化されていきます。同じように【2】でも、「自由な遊びで育つ」ことを妨げるものが「学校の勉強」であり、それを担う学校教師が問題だとする見方になります。
これらはいずれもが主張していることが一面的であるの点が特徴ですが、ここにハラスメント問題が生まれる土台があります。単なる個人の問題に解消できない面がそこに隠れているからです。
とりわけ、加害側の集団内ではハラスメントのコトバは悪いイメージのものではなく、「常識」のひとつとして認識されている点に注意が必要です。それは何度も様々な場面で語ることで、集団内部で常識の度合いも強まっていくからです。いかにそれが一般社会の常識とズレていたとしても、そこの内部では当然のことだと認識されているわけです。
ハラスメント論(1):モラルハラスメントの本質
いじめ・ハラスメントにはそのタイプに応じた発達段階のようなパターンがあることが専門家の研究でわかっています。陰湿な場合は閉鎖空間であることから、その閉鎖度合いに応じたいじめ関係がパターンとしてみられるのです。
たとえば、初期の場合ならいじめも明確ではなく、互いのイタズラ心によるふざけ合いのような形にみえます。その段階では当人達も遊び的な行動をしているとしか意識していないはずです。それが徐々に進行するにつれて、直接暴力を振るわなくとも陰険なものへと転化していくといったことが起きてきます。そのきっかけとなる出来事は様々ですが、集団内の絆を絶対化しているため、それを妨たり無視した行動を相手がしたときが一つの区切りと考えられます。
このようないじめ段階を「全能性を求める欲求」(自分の正義が絶対とみる心理)と指摘する専門家もいますが、相手を自分達の”正義”を妨げる「害をなす者」とみなし、自分の”正義”がわからないことを相手の責任だと非難する態度がみられます。それが彼の周りにいる集団と一体となって、特定の者を責めるコトバによってエスカレートさせていくようなケースが典型的な「モラルハラスメント」です。
そこには相手をいかに自分の”正義”に従うようにさせるかという意図が一貫してありますが、それは実際には被害側も気づきにくいものです。表面的には「子どものために」「会社のために」といった”正義”を語るようにみえるためです。それにより、被害側は自分が悪いのではないかと感じさせられてしまうことになります。
とくに加害側がボランティア的な活動ならば社会貢献をしている意識が強いため、自分達のほうに”正義”があるという意識が強く働きます。一般の企業などであればどこか商売という後ろめたい意識があったりしますが、ボランティア活動には金銭的以外の社会的な価値を生み出しているという自負心があるからです。
とはいっても、時間が経つにつれて被害側も何かおかしいと気づき始めます。被害側に嫌味や憎しみの態度をみせるようになり、矛盾するコトバで反省を迫ったりしてくるためです。そして、その加害者の仲間がいる場合には、そのメンバーらも一緒になって被害者を「無視」する態度をとったりする形で関節的に傷つけようとします。
こうした行為に対して被害側は相手への怒りの感情もありますが、集団的な心の暴力によって自尊心も低下させられ、うつ病になるほど大きなストレスを受けるというわけです。
遊び論(6):「自由な遊び」の”自由”とは?
遊びの支援を考えるうえで、自然と社会の”制約”を深く理解しておくことは子どもの立場で遊びを実現するうえで非常に重要なことです。この”制約”の理解が曖昧であったり、自分の主観的な感情に固執していたりすると一面的な”自由”になってしまうからです。
「自由な遊び」の主張が意味するものは多様な意見があるとしても、根幹にあるのは「他者からの強制ではない」ということです。ただし、注意する必要があるのは、”自由”というコトバの指す意味です。なんでも自由であればよいような「自由万能説」ではないのは当然です。人を傷つけたり法律を無視した行為まで許す内容ではありません。ここまでは普通の市民感覚を持つ人なら、誰しも同意できる常識的な考えだといえます。
そこで、もう少し”自由”の内容、とくに自由を「制約」するものが何かという本質的な問いについて検討してみましょう。
第1に考える必要があるのは自然という環境そのものが持つ自由の”制約”です。木が多く植えられた森のような公園であれば、野球やサッカーのような球技はできないのであり、自然環境の制約を受けて遊びの内容も変わってきます。それを変える要因は人ではなく自然環境であって、人が手を加えなくともそこに存在している物理的な”制約”です。
いくら子どもがそこでサッカーをしたいと思っても、サッカーをする”自由”は幻想となります。もちろん、その木を取り払えるなら、可能ですが実際は多くの予算や公園の制度上の問題が出てきます。だからこそ、その公園の課題として自然環境を活かす工夫や遊びの工夫が必要になってくるのです。それゆえ、自然をどう活かすかが遊び支援の課題となります。
第2に人間関係や文化に関わる社会的な”制約”の問題があります。たとえば、公園が都会のマンションに囲われた場所ならば、そこの住人の多くがサラリーマンの率が高いはずです、そのために、帰宅が夕方遅くなり、日中の公園内での遊びで騒音がさほど問題にならずに済むかもしれません。これはマンションに住む人が会社勤めしているライフスタイルに関わる社会的な”制約”の問題です。ところが、在宅ワークが急増した現在では日中家で仕事をする人も多いため考慮する必要が出てきます。
こうした自然と社会の”制約”は簡単には動かせないため、「自由な遊び」の内容を実質的に制限してしまいます。
しかし、逆にそうした環境の個性を活かした遊びを別の形で創り出す可能性もできてきます。つまり、そこで大きなボールによる球技ができないなら、新たな遊びへの機会ともなるということです。それをどう工夫するかが、遊びを支援していく側の本欄の課題であり支援する力にもなってきます。
第3として法的な”制約”があります。法においての自由は憲法に定められたものであり、基本的人権の柱のひとつです。そのために、教育を受ける自由や政治、居住の自由など定められています。子どもの遊ぶ権利を正式に認めたのは「児童の権利憲章」ですが、その31条においては遊ぶことの権利とさらに意見を表明する権利がうたわれています。
「自由な遊び」という教育論は、世田谷区の成城学園初等学校の創設者だった沢柳政太郎が大正時代に提唱していたことで知られます。そんな歴史もあって同小学校では「遊び科」という特別授業がカリキュラムとして実践されています。そこの研究会に参加していたときにある教師が「自由って自律している子どもにこそ与えられるべきかと思う」という意見を述べていました。私もまったく同感です。
私たちはどうしても「自由な遊び」について、”自由”を称賛するコトバとして受けとめてしまいます。しかし、憲法では他者の人権を侵す”自由”は許されない大原則があります。それはむしろ、社会の中で生きていくうえで不可欠だからですが、その認識が欠けていないかどうか注意が必要でしょう。
最後に第4として親からの“制約”を考えておきたいと思います。その理由は「親ガチャ」(差別用語に相当)というコトバに示される貧困な家庭の親の不平等や虐待の問題があります。幼少期においては、この親との不適切な関係は他の3つの制約以上に大きな課題です。しかも、子どもは親を選べない以上は一生離れられない関係ですので、一時的な対処では真の解決にはなりません。
それほど根深いのが親の“制約”ということですが、家庭の事情はそれぞれ独自の課題があるため外部からはみえません。そのために子ども自身が適切な対処を選択するにも限界があります。しかも、オカルト的宗教の事件にみられるように、子どもが親をかばう意識が働いてしまい、本人が過剰に同調してしまうリスクも高くなります。
さらにいえば、客観的には異常な関係であっても親は子どもに過剰な期待をし、親の意志に従う素直さを求めます。その結果、親と同伴で公園に遊びに来たような場面では、本当に子どもが自分の意志でその遊びを選択しているか疑問な面も出てきます。というのも、そこは親の目があるゆえに、それに応えようとして親が喜びそうな遊びや、”親と一緒”に何かをするようなことが多くなってくるからです。
遊び論(5):「拡張された遊び」の視点
外遊びには多様な形があり、公園での球技や道路横でするメンコ、そしてスポーツの場として野球場やテニス・コートなどがあります。たとえば、昭和30年代の子ども達はメンコをよくしていました。とくに、当時の人気アニメのカードを集めたりして、自分や強い相手が持つカードには何か特別な力が宿るようなおまじないのようにして、カードを勝ち取る喜びを感じたものでした。そのカードの表紙には当時の人気キャラクターが描かれ、使うほど味の出るジーンズのような愛着を持つ特別な遊び道具だったのです。
子どもの遊びの多くはこうした道具利用が不可欠なものとしてあります。単純な遊びにも必ずそこに文化としての道具があるのです。砂遊びや水遊びも何も道具は使わないように見えるかもしれませんが、砂場やプールのように囲いをした”仕組み”があり、川や海での遊びのような場合でも、安全性を考慮した浮き輪や水中メガネなど使用しています。
こうした遊びでは文化的な影響が強く出ていますが、それだけでなく自分らしさも加える工夫を子ども自身でしていました。このような「遊びの自分化」(selfishness of play)にはどんな効果があるのでしょうか。
その第一が「子どもの文化」創りへのステップになるということです。メンコのような遊びの例でいえば、カードの表紙部分に当時流行しているアニメやキャラクターを使われています。そのお気に入りのものを手に入れようと、遊びの中で勝ち負けを競うことになります。そして、子どもは自分のカードの端を折り曲げたり、裏返しがしにくい形状になるように工夫したりします。それによって、カードは当人独自の仕様になり、ちょうどカスタマイズされた改良バイクのようにかけがえないモノとなってきます。
このような遊び道具へのこだわりや工夫の過程は、子どもが日常の多様な学びを実践する機会や場にもなってきます。メンコのカードの形状を自己流に変えてみることに気づき、カードを火であぶったり、その角をやすりで削ったりといった試す行為「先取り試行」をしてみるのです。様々な加工の仕方を試すことで、メンコ遊びに強いカードの形状が仕上がり、それを友人に教えてあげたりもするのです。
そうすることで、互いの友情を深めるだけでなく、文化の共有、具体的には知識としての技能の共有ができるようになってきます。これらの道具へのこだわりは同時に自分の”アイデンティティ”(自分らしさの核)とも重なるため、道具のでき具体はちょうどプロの職人のように普段から気にかけて改良を重ねていきます。文化としての道具から自分の道具への「遊びの自分化」がそこに反映されているのです。
つまり、メンコ遊びを通じて子どもが得るものは、ただ”楽しい”やその場で”したいこと”など一時的な快や場当たり的な欲求だけを満たそうとしているのではないことがわかります。もちろん、他の多様な遊びにおいては、そうした瞬間的で一時的な遊びの場面も多くあります。しかし、ここで確認しておきたいことは、遊びが文化としてどう子どもに影響し、また逆に子どもが文化の創造に関わるようになってくるかということです。
メンコ遊びはその典型的なものです。従来からも遊びの研究が明らかにしてきたことは、遊びの中で子どもは個人の身心の発達、たとえば子どもが自分への自信(自己効力感)を高めたり、チェレンジする意欲を持つことを実証してきました。ですが、ここでは個を越えた文化的な視点でみることの重要性を指摘しておきます。
これまでも文化的な側面から遊びを論じていた古典的な遊び理論を説いたホイジンガ―やカイヨワの諸説は、遊びの多様な形態を区分し、それらの特徴の背景を社会文化的な関連から説いています。その成果も踏まえたうえで、今後、遊びを「活動理論」(Y・エンゲストローム)の”活動”(activity)の単位で捉えていくことが重要になってきます。つまり、具体的な遊びの場で、子どもの行動とそれを媒介する”道具”との相互作用をテーマにした「拡張された遊び(Expanded Playing)」を検討していくことが求められるといえるでしょう。
遊び論(4):「ユートピア型」ではなく「ユニーク型」の公園へ
公園が子どもにとって理想の遊び場になることは一般的にはすばらしいことです。しかし、検討される必要があるのは「自由に遊ぶ」といった”理想郷”にする是非についてです。ここの公園にくれば「自由に遊ぶ」ができるのだから、子どもは何でも好きなように遊べるとみなすような支援の在り方についてです。
こうした発想は大人側の余計なお世話になってくる面がないといえるでしょうか?
現実に求められる遊びの実態からすると、このようなごく限られた公園を理想郷にする一方で、本来遊びとして利用できる公園その他公共のスペースが置き去りにされているように思えます。
たとえば、サッカーの騒音で悩んでいる公園が多いようですが、あるプレーパークでも同じようなことが続き、被害住民が周りの環境を活かせないか調べました。するとすぐ近くに高速道路下のサッカーができる運動場があったのですが、ほとんど使われていませんでした。徒歩で100mも行かないほどですが、ワーカは自分達の担当するエリアだけで遊ばせることに専念してしまい、それを利用するような案内・指導をずっと何年間もしていませんでした。つまり、その地域全体で遊びを創っていく見識を欠いていたのだといえます。
こうした認識の歪みは多くの教育家にもありがちなワナです。一度自分の経験で成功したりするとその狭い経験に固執してしまうからです。そして、環境や状況の違いを無視して、都合のよい面だけ強調して正当化しようとします。これは心理学では「確証バイアス」とよんでいる偏見の典型的な弊害です。このような自分達の公園内だけを子どものユートピアの場にしようとする「テリトリー意識」は、同じ公園で長年続けてきた場合はさらに強まってきます。しかし、これは遊びの場づくりを狭い理想郷にして歪めてしまうものです。必要なのは「ユートピア型」ではなく「ユニーク型」の公園だからです。一面的な子どもの理想郷を創るのではなく、各公園の個性と環境の”強み”を活かすという公園作りです。このような「ユニーク型」のプレーパークの在り方を提唱しているのは私だけではありません。他もない羽根木プレーパークの生みの親でもあった大村璋子・虔一夫妻です。大村璋子編著『遊びの力』(2009年発刊)では、遊びを支援する側の「ひとりよがり」を戒めて次のように述べています。
『遊び場には危ないだけでなく、汚いという苦情もあるのですが、世の中にはきれい好きな人もいるわけで、そういう工夫も必要かもしれません。景観的な配慮をすることで、地域との関わりができ、ふるさとづくりやまちづくりにつながる。自分達たちの楽しみだけでなく、周囲の人といっしょに遊び場を育てていくことになる。そういう発想になっていれば、日本での遊び場ももっと受け入れられるようになるのかもしれません。ひとりよがりでなく。』(同著p181)
また同著の中で夫の大村虔一は次のように警鐘を鳴らしています。
『今の状況を見ても、あそこに”プロの遊ばせ屋さん”がいるから、あそこに子どもを預けると子どもが賢くなるという思いで、子どもを遊びに行かせている保護者がいるのではないか。そういうスタイルで冒険遊び場が広がった部分があるのではないかと危惧している。子どもが本気になって、いきいきと遊ぶことが大事なのだという方向にいかないといけない。全国に、冒険遊び場の数を増やすことだけを考えていないか。気にしている。単なる遊びだけじゃなく、子どもの生活そのものを問題にしないといけない。そのときそのときを自ら楽しめる暮らし。それがないといきいきした子どもが育たない。』(同著p157)
こうした大村夫妻の主張からわかることは、遊び自体は子どもに不可欠なものですが、同時にそれは”生活の一部”であり全体ではないという見方ではないでしょうか。
遊び論(3):「大人VS子ども」の認識の罠
「大人が子どもの成長を歪めている」や「大人が子どもの遊びを奪ってる」といった声が、遊び支援する団体から聞かれます。この“大人”とはいったい誰なのか気になるところです。なぜかといえば、そうした問題を引き起こしているものは一般的な“大人”ではないからです。子育てや遊びに関連する原因は“大人”といったコトバで説明できるものではありません。それが親なのか教師か行政かなど、大人の内容がむしろ問題だからです。そして、この社会の制度的な全体、“文化的装置”としての企業や学校、行政などの役割を無視して一般の“大人”に原因を解消するような見方は現実の認識を歪めるものです。
さらに問題の根本にあるのは、この数十年で大きく変わった生産や消費中心の生活だけでなく、富める者との格差や貧困といった“矛盾”です。そうした“矛盾”は教育制度を含む子育ての歪みを生み出し、それを拡大再生産しています。このような考えは1970年代から社会哲学者のイヴァン・イリイチが『脱学校論』の著書で警告して教育革新の必要性を説いていました。
そうした現状を社会全体として理解することが必要なのに、子どもの遊びの問題を単純に「大人vs子ども」の対立として描くのは本質を見誤ってしまうことになります。そこには子どもを一面的に”善”として、大人は”悪”とするようなかつての大正ロマン主義教育と言われた古臭い児童観があるからです。この教育思想は大正時代に大きなブームになり、世田谷区の成城学園初等学校がその中心となっていました。また文壇においても武者小路実篤が有名ですが、「自由の村」の社会運動もそうした流れから生まれたものです。これらの児童中心の思想は進歩的な面も当時ありましたが、子どもを理想化したうえで汚染された大人と距離を置く。そういった純粋培養の子どものユートピアを創ろうとしたものでした。
子どもは大人に向かいつつ成長する”未来の大人”です。当然ながら、そこに現在の大人とのギャップもありますが、同時に学ぶことを通じて現在の大人を越えていく可能性があります。そうした未来への期待をかけてサポートしていくことが、教師だけでなく社会や地域がすべきことであるはずです。そのために必要なことは何か、次のようなことがすでに先進的な実践で示されているものです。
1:親は仕事と家庭のバランスのよいライフスタイルを実践して自らも幸せであるか
2:親は子どもの発達・教育に関して支援的であり自律を促すようにしているか
3:親は社会への貢献をめざした仕事観を持ち自らが学び続けているか
上記のことは一人一人の親に求められる課題ですが、とくに3番目は親も学びを続ける対象として、従来の生涯学習論を越えて成人発達論としての新しい見方だといえます。
こうした学びの視点は、現在の社会においてその矛盾を解決できないでいるという認識につながるものです。そこには現在の競争社会が抱える矛盾と同時に、日本の男女差別や多様性を認めない同調社会の問題が広く横たわっています。つまり、個人を越えた社会的な自治や人権にかかわる民主主義によって変えていく必要に迫られる課題なのです。
遊び論(2):子どもとの”対話”と実践例
「子ども中心主義」という理念をただの標語ではなく、子どもの”自律”へと発展させている施設があります。横浜市にある「りんごの木」という保育施設であり、ここでは各クラスが幼児数30~40人、担任が2~3名だといいます。同園は「大人が”どういう子に育てたいか”ではなく、”幼児一人一人がどう育とうとしているのか”を重視」(※文献p52)しているといいます。そのための具体化として、次のような実践をします。
「幼児が自由に遊び込んだ後の11時過ぎから30~60分の時間をかけ、車座に椅子を並べて座る形で話し合いが行われ、保育者も輪の中に入るという。そこで遊びのこと、喧嘩のこと、友だちのこと、家族のこと、その日あったこと、ふしぎに思っていることなどの出来事をテーマに、保育者と幼児がワイワイガヤガヤ、相互に言葉を介して話し合うことで、お腹をかかえて笑い合ったり、大激論になったりする。必ずしも結論がすぐに出るわけではないけれども、幼児が自分の言葉で語り、心のモヤモヤを出し、そして考える。」(同p52)
この実践がユニークなのは、4~5歳児が互いの気持ちを素直にコトバとして表し、一見するとネガティブな喧嘩のような場面も受け入れていることです。一般的な方法では保育者がその子の内面をくみ取るようなことが強調されてしまい、子ども同士が話し合いで解決をするようなことはありません。ところが、同園ではそんな本音での語りを保育者も一緒になって、クラス全体の”対話”の中でしているというのです。
実際の語りの場面を紹介した部分を下記に引用しておきます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
カナメ:(私がステージでピアノを弾いたら)お客さんにピアノ間違っていると思われているよってマユチンに言われて嫌な気持ちになった・・・
マユチン:(突然泣き叫びながら)なんで今、それを言わなきゃだめなの?みんなの前では言って欲しくなかった
園長:でもマユチンが言った言葉で、カナメが嫌な気持ちになったんだから仕方ないじゃない
マユチン:(泣きながら)そんなこと簡単に口出ししてほしくない!
カナメ:(叫びながら)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
※【文献】中坪史典『幼児教育における”子ども中心主義”の理念に潜在する問題』(2015)
遊び論(1):「自由な遊び」と「ルール化」
最近、都内の公園などで細かなルール・規制が看板に掲示されているのが目につきます。それによって、小さな子どもなら問題にならない程度の球技でも禁止されるようなことがおきます。同じようなことで、学校分野では髪の毛を染めてはいけない等の理不尽な「校則」なども問題でしょう。こうした細かな「ルール化」による規制は、昭和から平成にかけて強化されてきました。そうしたルールの固定した解釈ではなく、現場の実態に即した「ルール化」が問われてきています。
一方ではこうした公園のルールによる禁止が必要なケースも多くあります。近隣住民が生活権を求めて騒音などの苦情も現実的に増えているためです。そこには経済の一極集中による「都市化」の矛盾が現れている面があります。その矛盾の結果として都内の空き地はマンションに替わり、広い場所を確保するのも難しくなりました。20年前なら気軽に焚火もできた公園も、今ではできないような環境の変化が生まれているのです。
そんな公園の環境の変化を無視して固定的に遊びを捉えたり、ルール自体があたかも「遊びを奪っている」とする見方は住民とのトラブルの原因になってきます。また、そうした意見を掘り下げてみると、それを語る側の支援側のスタッフや親がルールを改善していく積極性がないことに気づきます。つまり、「ルールが自分たちを束縛している」という”被害意識”があり、”自由”と”ルール”が相反するものと思い込んでいるのです。
これは社会の中でルールがどうあるべきかという問題でもあります。また、一時的な解決を優先しがちな行政の問題も絡んでくるものですが、問題点を要約すれば行政側と支援団体側からの次の点があげられます。
1:行政が公園に一律的に適用しているために遊びが不当に制限されている
2:行政の規制の見直しをすべきだが、支援側が一面的な”ルール否定”に陥っている「野球・サッカーを禁止」とするような遊びの禁止の掲示は、それ以外の遊びの球技ならば問題はないのかということになりますが、遊びの多様性からするとこの告知では不十分なものです。そこに理由も書かれていませんので、当然受け取る側は禁止事項への反発心を持つだけで、その抜け穴を探そうとしてしまいます。このような場面では禁止自体のメッセージにより「心理的リアクタンス」(反抗心)が高まりやすいことが心理学でわかっています。禁止事項を増やせばそのような反抗心も逆に高まり、告知のルールを無視するような行為につながるわけです。
こうした悪循環を繰り返す限り、根本的な解決への道はないことは明かです。そこで現在、ルール作りの在り方全体を見直す「ルールメイキング」(※参考:苫野一徳ほか著『校則が変わる、生徒が変わる、学校が変わる/みんなのルールメイキングプロジェクト』)の改善運動などが全国レベルでおきています。とくに校則などの改善が典型的ですが、すでに多くの学校が取り組み始めています。たとえば、千代田区の麹町中学校や世田谷区の桜が丘中学校では、従来のルールの見直しをしたうえ原則的なものを残して撤廃してきました。それでも成績が下がったわけではなく、むしろ個性を尊重する学校に変わったということで注目されています。