ハラスメント論(3):「大人のルール」が“悪い”による正当化

「大人のルール」が「子どもの遊びを奪っている」というルール否定を語るストーリは、大人か子どもかの対立関係を強調することが特徴です。たとえば、ある都内住宅街のプレーパークの例でみると、遊び支援のNPO理事が「大人の文句ばかりで遊ぶ場がない」というコトバで、住民がクレームする事に対して非難していました。さらに加えて、被害側に「なぜ引っ越ししないのか」と非難したり、「子どもの遊ぶ自由のために早く引っ越すべきだ」という「子どものため」という大義が一面的に強要されたりしていました。

こうした一面化された”正義”のストーリにより、語る当人達は意識していないとしても、被害を受ける住民に対して子どもへの”罪悪感”を与えようとします。その”罪悪感”を被害住民に認めさせる必要があるからこそ、「あなた達は子どもの遊びを奪ってる」と非難するというわけです。

このストーリからすると公園の条例も「大人が勝手に決めたルール」として否定することになります。それは「自由に遊ぶ」ことを妨げるものとされ、そのために公園内の看板にある「サッカーや野球は迷惑にならないようにしましょう」のような注意書きは、園内の子どもに無視されてしまうことになってしまいます。自由な遊びを邪魔する”大人が悪い”という単純化した考え方が浸透し、そこで遊ぶ子ども達も植え付けられてしまうのです。

こうしたひとりよがりな”正義”のストーリこそ、モラルハラスメントを生み出す要因になってきます。それが向かう方向は子どものためではなく、むしろ大正時代に流行った大人否定の「児童中心主義」のような偏った教育論にはまってしまいます。

 

ハラスメント論(2):コトバが持つ悪循環の構造

ハラスメントには対人関係を含む社会的なコミュニケーションの”構造”がそこにあります。他のコミュニケーションの構造とどこが異なるのか、それはどんな特徴を持つのかを中心にここで検討してみましょう。

ハラスメントでは相手を攻撃するための独特のコトバが使用され、その効果が周囲にいる仲間によってさらに拡大していくという特徴があります。たとえば、公園利用の事例では、子ども遊びを支援する団体のケースで「子どもの遊び奪っている」という住民への批判のコトバがあげられます。このコトバを発する状況を観察してみると、その理事の独特の社会観が反映されていることがわかります。それは「大人VS子ども」という対立構造を軸にした社会全体への一面的な見方です。そして、この対立関係を支えるのが「大人のルール」というもう一つのコトバです。「子どもの遊ぶ自由が奪われている」という論理が、この二つのコトバが結び付いたストーリとして語られていきます。

このようにハラスメントのコトバは単独でというよりも、他のコトバと結びつきながら自らの正当性を支えているのです。たとえば、ハラスメントに関連したプラス的なコトバとネガティブなコトバを左と右に分けて対比してみると次のようになります。

【1】「子どものやりたいをやらせてあげたい」
⇒<妨げるものは?>⇒「大人のルール」=つまり被害住民
【2】「子どもは自由な遊びで育つ」⇒<妨げるものは?>
⇒「学校の勉強」=つまり学校教師

このようなコトバは所属する集団内での特有な「常識」(コモンセンス)になっていきます。彼らの中で行われてきた経験とそのコトバは密着しており、特別なニュアンスや意味が付加されていきます。たとえば上記【1】の場合、被害住民からのクレームは「大人のルール」の現れとして扱われ、それは「やらせてあげたい」とする焚火遊びなどを妨害する相手になってしまいます。

それによって、そのためにいかに集団の結束を固めて自分達の”正義”を守るかということになり、対立する相手を排除していこうとする意識(※「内集団バイアス」)が強化されていきます。同じように【2】でも、「自由な遊びで育つ」ことを妨げるものが「学校の勉強」であり、それを担う学校教師が問題だとする見方になります。

これらはいずれもが主張していることが一面的であるの点が特徴ですが、ここにハラスメント問題が生まれる土台があります。単なる個人の問題に解消できない面がそこに隠れているからです。

とりわけ、加害側の集団内ではハラスメントのコトバは悪いイメージのものではなく、「常識」のひとつとして認識されている点に注意が必要です。それは何度も様々な場面で語ることで、集団内部で常識の度合いも強まっていくからです。いかにそれが一般社会の常識とズレていたとしても、そこの内部では当然のことだと認識されているわけです。

ハラスメント論(1):モラルハラスメントの本質

いじめ・ハラスメントにはそのタイプに応じた発達段階のようなパターンがあることが専門家の研究でわかっています。陰湿な場合は閉鎖空間であることから、その閉鎖度合いに応じたいじめ関係がパターンとしてみられるのです。

たとえば、初期の場合ならいじめも明確ではなく、互いのイタズラ心によるふざけ合いのような形にみえます。その段階では当人達も遊び的な行動をしているとしか意識していないはずです。それが徐々に進行するにつれて、直接暴力を振るわなくとも陰険なものへと転化していくといったことが起きてきます。そのきっかけとなる出来事は様々ですが、集団内の絆を絶対化しているため、それを妨たり無視した行動を相手がしたときが一つの区切りと考えられます。

このようないじめ段階を「全能性を求める欲求」(自分の正義が絶対とみる心理)と指摘する専門家もいますが、相手を自分達の”正義”を妨げる「害をなす者」とみなし、自分の”正義”がわからないことを相手の責任だと非難する態度がみられます。それが彼の周りにいる集団と一体となって、特定の者を責めるコトバによってエスカレートさせていくようなケースが典型的な「モラルハラスメント」です。

そこには相手をいかに自分の”正義”に従うようにさせるかという意図が一貫してありますが、それは実際には被害側も気づきにくいものです。表面的には「子どものために」「会社のために」といった”正義”を語るようにみえるためです。それにより、被害側は自分が悪いのではないかと感じさせられてしまうことになります。

とくに加害側がボランティア的な活動ならば社会貢献をしている意識が強いため、自分達のほうに”正義”があるという意識が強く働きます。一般の企業などであればどこか商売という後ろめたい意識があったりしますが、ボランティア活動には金銭的以外の社会的な価値を生み出しているという自負心があるからです。

とはいっても、時間が経つにつれて被害側も何かおかしいと気づき始めます。被害側に嫌味や憎しみの態度をみせるようになり、矛盾するコトバで反省を迫ったりしてくるためです。そして、その加害者の仲間がいる場合には、そのメンバーらも一緒になって被害者を「無視」する態度をとったりする形で関節的に傷つけようとします。

こうした行為に対して被害側は相手への怒りの感情もありますが、集団的な心の暴力によって自尊心も低下させられ、うつ病になるほど大きなストレスを受けるというわけです。