「大人が子どもの成長を歪めている」や「大人が子どもの遊びを奪ってる」といった声が、遊び支援する団体から聞かれます。この“大人”とはいったい誰なのか気になるところです。なぜかといえば、そうした問題を引き起こしているものは一般的な“大人”ではないからです。子育てや遊びに関連する原因は“大人”といったコトバで説明できるものではありません。それが親なのか教師か行政かなど、大人の内容がむしろ問題だからです。そして、この社会の制度的な全体、“文化的装置”としての企業や学校、行政などの役割を無視して一般の“大人”に原因を解消するような見方は現実の認識を歪めるものです。
さらに問題の根本にあるのは、この数十年で大きく変わった生産や消費中心の生活だけでなく、富める者との格差や貧困といった“矛盾”です。そうした“矛盾”は教育制度を含む子育ての歪みを生み出し、それを拡大再生産しています。このような考えは1970年代から社会哲学者のイヴァン・イリイチが『脱学校論』の著書で警告して教育革新の必要性を説いていました。
そうした現状を社会全体として理解することが必要なのに、子どもの遊びの問題を単純に「大人vs子ども」の対立として描くのは本質を見誤ってしまうことになります。そこには子どもを一面的に”善”として、大人は”悪”とするようなかつての大正ロマン主義教育と言われた古臭い児童観があるからです。この教育思想は大正時代に大きなブームになり、世田谷区の成城学園初等学校がその中心となっていました。また文壇においても武者小路実篤が有名ですが、「自由の村」の社会運動もそうした流れから生まれたものです。これらの児童中心の思想は進歩的な面も当時ありましたが、子どもを理想化したうえで汚染された大人と距離を置く。そういった純粋培養の子どものユートピアを創ろうとしたものでした。
子どもは大人に向かいつつ成長する”未来の大人”です。当然ながら、そこに現在の大人とのギャップもありますが、同時に学ぶことを通じて現在の大人を越えていく可能性があります。そうした未来への期待をかけてサポートしていくことが、教師だけでなく社会や地域がすべきことであるはずです。そのために必要なことは何か、次のようなことがすでに先進的な実践で示されているものです。
1:親は仕事と家庭のバランスのよいライフスタイルを実践して自らも幸せであるか
2:親は子どもの発達・教育に関して支援的であり自律を促すようにしているか
3:親は社会への貢献をめざした仕事観を持ち自らが学び続けているか
上記のことは一人一人の親に求められる課題ですが、とくに3番目は親も学びを続ける対象として、従来の生涯学習論を越えて成人発達論としての新しい見方だといえます。
こうした学びの視点は、現在の社会においてその矛盾を解決できないでいるという認識につながるものです。そこには現在の競争社会が抱える矛盾と同時に、日本の男女差別や多様性を認めない同調社会の問題が広く横たわっています。つまり、個人を越えた社会的な自治や人権にかかわる民主主義によって変えていく必要に迫られる課題なのです。