最近、都内の公園などで細かなルール・規制が看板に掲示されているのが目につきます。それによって、小さな子どもなら問題にならない程度の球技でも禁止されるようなことがおきます。同じようなことで、学校分野では髪の毛を染めてはいけない等の理不尽な「校則」なども問題でしょう。こうした細かな「ルール化」による規制は、昭和から平成にかけて強化されてきました。そうしたルールの固定した解釈ではなく、現場の実態に即した「ルール化」が問われてきています。
一方ではこうした公園のルールによる禁止が必要なケースも多くあります。近隣住民が生活権を求めて騒音などの苦情も現実的に増えているためです。そこには経済の一極集中による「都市化」の矛盾が現れている面があります。その矛盾の結果として都内の空き地はマンションに替わり、広い場所を確保するのも難しくなりました。20年前なら気軽に焚火もできた公園も、今ではできないような環境の変化が生まれているのです。
そんな公園の環境の変化を無視して固定的に遊びを捉えたり、ルール自体があたかも「遊びを奪っている」とする見方は住民とのトラブルの原因になってきます。また、そうした意見を掘り下げてみると、それを語る側の支援側のスタッフや親がルールを改善していく積極性がないことに気づきます。つまり、「ルールが自分たちを束縛している」という”被害意識”があり、”自由”と”ルール”が相反するものと思い込んでいるのです。
これは社会の中でルールがどうあるべきかという問題でもあります。また、一時的な解決を優先しがちな行政の問題も絡んでくるものですが、問題点を要約すれば行政側と支援団体側からの次の点があげられます。
1:行政が公園に一律的に適用しているために遊びが不当に制限されている
2:行政の規制の見直しをすべきだが、支援側が一面的な”ルール否定”に陥っている「野球・サッカーを禁止」とするような遊びの禁止の掲示は、それ以外の遊びの球技ならば問題はないのかということになりますが、遊びの多様性からするとこの告知では不十分なものです。そこに理由も書かれていませんので、当然受け取る側は禁止事項への反発心を持つだけで、その抜け穴を探そうとしてしまいます。このような場面では禁止自体のメッセージにより「心理的リアクタンス」(反抗心)が高まりやすいことが心理学でわかっています。禁止事項を増やせばそのような反抗心も逆に高まり、告知のルールを無視するような行為につながるわけです。
こうした悪循環を繰り返す限り、根本的な解決への道はないことは明かです。そこで現在、ルール作りの在り方全体を見直す「ルールメイキング」(※参考:苫野一徳ほか著『校則が変わる、生徒が変わる、学校が変わる/みんなのルールメイキングプロジェクト』)の改善運動などが全国レベルでおきています。とくに校則などの改善が典型的ですが、すでに多くの学校が取り組み始めています。たとえば、千代田区の麹町中学校や世田谷区の桜が丘中学校では、従来のルールの見直しをしたうえ原則的なものを残して撤廃してきました。それでも成績が下がったわけではなく、むしろ個性を尊重する学校に変わったということで注目されています。